幸せは、同時期に1つしか叶わないと思う
こんにちは。
宗教法人ましゅです。
…嘘です。
ふと、帰り道に考えたことについてお話ししたいと思います。
「幸せは、同時期に1つしか叶わないと思う」ということについてです。
よく巷で、”◯◯をしたら願いがどんどん叶うようになる"…みたいな、1つのことをキッカケに、芋づる方式のように人生が好転する系の話や書籍が人気を博しているのをみかけます。
そんなに簡単に人生いくものでしょうか?
私はそう思わないんです。
まあ、そうなってくれたら一番いいんですけども。
何故そう思うか?
それは、漢字に着目するとなんとなくわかるかなぁ、と思います。
しあわせ。
漢字で書くと、幸せ。
幸せって、どういう経緯で感じるものでしょう?私の人生を思い返すと、幸せは、必ず辛い時の後にやってくるイメージがあります。例えば受験勉強とか就活とか、体育会系の人ならめっちゃ練習した結果勝った試合とか。辛いことの報いとして、幸せはやってくるなぁ、と思ったのです。
すごくベタなことを言うと、辛という漢字に横線を1本足したら、幸になるんですよね。
その1本の横線が、叶った幸せを表してるのではないでしょうか?
また、横線が2本、3本…と増えたら、それは幸という漢字ではなくなっちゃいますよね。
つまり、幸せは一度に1つしか叶わない。
でも、人間というのは欲張りなもので、幸せを感じてもその感情は永久には続かず、いつかその幸せを忘れてしまう。そうすると、また辛いなーなんとかならないかなーって考えてしまう。そうしてまた、幸せを探し求める。辛→幸への横棒を探し求める。
人生ってそんなもんなんじゃないかなって、ふと思いました。
欲張ってたくさんの幸せを求めても痛い目を見るだけだし、逆に、今が辛くてどうしようもないって状況でも、いつか必ず報われる時がくるはず。
まあ、鍛錬を欠いては何事も進みませんがね。
タイマー生活をはじめました。
社会人になると困ること。
それは、「めっちゃ自由な時間が減る」ということ。
学生の時は腐って捨てるほど自由な時間がありました。
自由、といっても、それは「暇」というものではなく、自分で考え、自分で思ったように行動することができる。そういう自由です。
でも、社会に出るとそうもいかない。
精神的にも物理的にも、一日の大半を拘束されてしまう。
私も社会に出たての時困りました。
というか、つい最近まで時間の捻出方法についてかなり真剣に模索していた人間だと思います。
だってやりたいこと、たくさんあるもの。土日以外にも平日でもやりたいもの。
ということではじめました、「タイマー生活」。
タイマー生活とは何か。
それは、「一つの行動について制限時間を決め、それを超えたらたとえ途中でも強制終了する」という、かなりラディカルなもの。(いや、結構メジャーか?)
私の場合。今自分に課している日課は以下のものとなります。
①プログラミングの勉強
②読書
③資格試験の勉強
④英語学習
⑤実はブログを習慣化させたい
それの一つ一つに制限時間を設けるわけです。
①40分
②30分/1コマ(読書はいくらでもしたいww)
③2時間
④30分
⑤15分
といったように。
実は昨日から制限時間を意識し始め、今日で2日目ですが、制限のおかげで割と効率よく動けている気がします。
あとはそれがいつまで続くかが問題ですが。
タイマー生活で、日常をより楽しくできたらいいですよね。
資本主義の犬みたいな発想かもしれませんが笑
新発見
久しぶりにブログを立ち上げて、I tunes のリンクを貼れることに今更ながら気付きました。
これはとても便利な機能ですね(もしかしたら他のブログもできるのかもしれませんが…)
ということで実験してみます。
ここ最近、Agent frescoという、アイスランド出身のバンドにはまっております。
その中でもオススメのアルバムがこれです。
この後に発売されたアルバム、Destirerも素敵なんですが、このアルバムの方が私は好みです。
アルバム全体を通して曲調が暗めだったり緊張感のある感じなのですが、個人的にはそれがボーカルのArnor Danさんの物悲しげな歌声にマッチしてて良いなーと思うんです。
特に
・anemoi
・silhouette ballet
この2曲は本当におススメです。
実はボーカルのArnor Danさん、フジテレビのノイタミナ枠で放送したアニメ「残響のテロル」の挿入歌”VON”や”BLESS”を歌われた方のようです。両方とも高音がとても綺麗で、また彼の違った魅力を見せてくれます。
以上、実験と、好きな音楽についてでした。
リンクを貼れるのは楽しいけど、ちょっと面倒なところもありますね…!
ではまた。
旅先で最も注意することは…
毎日書くはずが、なかなか思うようにいかない…習慣とは難しい。
先日、台北に旅行に母親と2人で行った。
約2年ぶりの海外旅行なので、テンションが上がらないわけがない。
しかし、唐突に事件は起きてしまった。
1日目、私達は現地の夜市で屋台巡りをしていた。母親のかねてからの希望で士林という、台北の中でも最大級の夜市に行っていたのだが、母親が歩いている途中で
「あれ、財布がない…」
と呟いた。
母親は日頃から荷物の多い人で、よく物を見失いがちなのだが、必ず荷物のどこかには入っていた。
ところが、この日は何度鞄の中を弄っても財布は一向に出てこない。
結局、財布は失くしていた。
5分ほど辺りを探したり、来た道を戻ったり、現地の人に身振り手振り(親子とも中国語は話せない)で状況を伝えるものの、見つからず。
財布の中には現金5万円相当、健康保険証、免許証やクレジットカードが入っていた。
財布を落としたら普通は気がつくはず。
士林は治安も悪いことで有名だから、スリに遭ったことを仮定して現地の警察署に行き、紛失届を発行してもらった。
そしてその後クレジットカードを止めるため、日本のサービスセンターに電話すると…
合計30万円が、紛失してから1時間の間に使われていた。
一応カード機能は止め、何かあった時の証明で警察署発行の届けを持っているから、30万こちらが払うような最悪の事態は回避させていただきたい。
ただ、今回の旅行で、つくづく貴重品の管理は大事なことだということを学んだ、
もしまた治安の悪い地を訪れるようなことがあれば、財布はチェーンでバックに固定させておくのがベターかもしれない。取り急ぎ財布の命は免れそうな気がする
苦楽
一つ質問。
あなたは、自分の人生を楽しいと思っていますか?
この質問に首肯できる人は羨ましい。
私は、自分の人生はクソだと思っているし、楽しいなんて微塵も感じない。私の中で生きることは義務であり、権利ではない。両親には申し訳ないと思うけどね。折角大きくなるまで育てていただいたのだけども。
何度かこの世界から逃げようかと考えたことがある。やはりクソみたいな人生を送りたくないし、楽しくない日常は、只々辛いだけ。
でもそれでも不幸なことにまだ生存しているし、そして多分社会の駒として勤めに行くのだろうと思う。倫理とか道徳とか、そういうこの世に蔓延る”何か”に邪魔をされ、淡々と生きて行くのだろう。
人生は、本当に辛く苦しいものだ。
苦しい事柄からは逃避したくなるのが人間の性である。
しかし、そこで私はふと、疑問を感じた。
「苦しい」という感情は、どこから湧き上がるのか?と。
考えてみると、私達は生まれた時は苦しいとい感情を知らないのである。(あっても、それを「苦しい」ことと知るのは成長過程においてであって、生まれつきその概念を知っているわけではない)。何かの折に自分の直面していることが苦しいものだと体得していく訳である。
例えば何かを我慢している時。
例えば頑張っても頑張っても、物事がうまくいかない時。
私は他はそういう時に辛さを感じ、苦しいと思う。
それは、言ってしまえば相対評価なのである。楽や楽しい・嬉しいという、心が湧き立つ感情を知っているからこそ生まれる感情なのだと思う。素敵な時を知っている。それと、上手く物事がいかない、欲通りにならない。これらの現状の落差の比較の結果なのである。
そう考えると、苦しみの感情というのはただ辛いだけのものではないのかもしれない。何故ならそれは、また幸福の日々に戻るための足掻きなのだから。
人生の境界線
これは昨日の出来事だ。
冷えた身体を温めるためにお風呂を沸かした。
お風呂はとても良い。体の隅々までポカポカになれる。
あまりの快適さについウトウトしてしまい、気付かぬうちに寝てしまっていた。
起きた時、私の顔は今にもお湯につかる寸前のところであった。もうちょっと起きるのが遅かったらもしかしたら死んでいたかもしれない。
私の命は、生きながらえたのであった。
しかし、ここで疑問、というか、気になることが湧き上がってきた。
人は死んだ後、どこに行くのだろうか。
私たちの大衆社会においては天国とか地獄とか、仏教に基づく行き先を上げるだろう。キリスト教なら地獄、煉獄、天国があって、所によってはユグドラシルという世界樹に行くと信じる社会もあったりする。また、私たちの生きる社会とそっくりな様相のところに行く、と伝えられるものもある。
死んだ後の人々の行く先は、意外とバリエーションに富んでいる。
私は、死後の世界はこの世界と重なりつつも干渉できないものだったら、はまま
と考えてみた。
わかりやすく言えば、生きてる人も死んでる人も同じ世界に住んでいるということ。でも肉体がない彼らの姿は殆どの人々は知覚できず、実は幽霊の方も選ばれたものでないと生きてる人間を見ることができない。
たまたま視界に入ったから呼んでみたけど相手が知覚していないため会話は成立しない。その逆もまた然り。
すまーとふぉん
現在、私たちの生活になくてはならないものとはなんだろうか。
答えは十人十色だと思う。
友達がいないとダメ!という人もいるだろうし、甘いものが必要なという人もいる。ゲームわ漫画、もしかしたら勉強がないと生きた心地がしないという人もいるだろう。
でも、私はそれ以前にスマートフォンがなければ、人々は生きてはいけないのではないかと思っている。
例えば、この私。
あさはスマホの目覚まし機能で起きて、身支度をしながらスマホで音楽を聴く。
通勤電車の中では、今は専ら読書よりもスマホで動画を見ている。仕事中はもちろん業務に集中するが、休み時間にはスマホでニュースを見る。
帰社のお供には、やはりスマホで動画を見たらスマホでゲームをする。
帰宅してからは、スマホのアプリで英会話の勉強。リスニングのCD も、スマホの中に入れておいた。
…この短文中に、一体どれだけ[スマホ]という単語が出てきただろうか。まず私が、スマホ漬けの生活に毒されすぎていた。この機械は、ただの機械ではなく、人間の延長機能を持っているのである。そう私は考えている。